山田敬蔵さんがお亡くなりになったとのニュースが舞い込んできました。
ご冥福をお祈りいたします。
山田敬蔵さんは1953年に行われたボストンマラソンで優勝した名ランナーです。
山田敬蔵さんの死因は何だったのか。
病気であるなら病名は何だったのか。
嫁(妻)や子供など家族はどうなっているのか。
について情報をお伝えします。
山田敬蔵の死因は病気?病名は?
山田敬蔵さんがお亡くなりになったと公表されたのは2020年4月23日。
山田敬蔵さんの奥さんが公表し、4月2日の夜に老衰のためお亡くなりとなったことが判明しました。
92歳で亡くなっているので、大往生でした。
葬儀・告別式については近親者でのみ行ったそうです。
山田敬蔵の家族(嫁・子供)の今現在は?

山田敬蔵さんの嫁(妻)や子供家族の今現在がどうなっているのかについても調べてみました。
山田敬蔵さんは結婚し、奥さんがいらっしゃいます。
奥さんの名前は「冨士子」さんです。
結婚されたのはいつなのかという点には情報がなく、明らかとなっていません。
子供がいるのかについても情報がなく、明らかとなっていません。
ただ、結婚されて奥さんがいらっしゃるので、子供は2~3人いる可能性は考えられます。
山田敬蔵さんが20代~30代の頃に子供ができていた場合は、子供の年齢も60歳~70歳となっているので高齢です。
山田敬蔵さんが92歳と大往生なので、子供も長生きしそうですね。
山田敬蔵のプロフィールや経歴がヤバイ!

名前:山田 敬蔵(やまだ けいぞう)
生年月日:1927年11月30日
年齢:92歳
出身地:秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)
身長:157cm
体重:43Kg
山田敬蔵さんは秋田県の出身です。
15歳の時には満蒙開拓青少年義勇軍(まんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐん)に志願して中国の満州に渡っています。
その時に2,000m~10,000mを走っていたことで長距離を走ることに自身がついたそうです。
第二次世界大戦終了後に日本に戻り、本格的に陸上を始めます。
1949年に秋田県代表として国民体育大会に出場し、初めてフルマラソンを経験しています。
1952年にはヘルシンキオリンピックで日本代表として出場します。
結果は25位と成績は今一つ。
ただ、翌年に行われたボストンマラソンでは「2時間18分51秒」という記録を叩きだし優勝!
このときの記録は世界最高記録をマークしました。
その活躍はマラソンだけに終わらず、「心臓破りの丘」という映画にまでなりました。
ボストンマラソンには1995年から毎年出場していて、1998年~2001年には70歳以上の部を4連覇しています!
70歳以上の部を4連覇とは物凄いですね。
高齢になってもマラソンを続けて結果を残す姿カッコいいですね。
「心臓破りの丘」の映画について

「心臓破りの丘」の映画は山田敬蔵さんをモデルにした映画となっています。
脚本は「須崎勝弥」
監督は「木村恵吾」
映画の題名はボストンマラソンにでてくる「ハアト・ブレーキング・ヒル」を日本語に訳しているそうです。
ストーリーはヘルシンキ・オリンピックからボストンマラソンで優勝を勝ち取るまでの内容となっています。
山田敬蔵さんをモデルにした映画なのでぜひ見てみたい作品ですね!
おわりに
山田敬蔵さんはボストンマラソンで世界記録を叩きだした物凄い方でした。
70歳を超えてもマラソンを続けていて、本当にマラソンが好きだったのでしょうね。
その方が無くなったということですので、とても悲しいことです。
ボストンマラソンで山田敬蔵さんが走る姿を間近で拝見したかったです。
ご冥福をお祈りいたします。
コメント